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『真理先生』に戻る



荒筋。

弱いが故にペルソナを求む男。





過去。


山奥の診療所は長らく使われていなかった。
だが最近になって人の出入りが確認されている。
それは、いつも同じ顔であった。
金髪の美青年。
歳は二十前半であろうか、灰色の縁の眼鏡をかけたその男は二年ほど前から出没している。
そして、もう一人―――齢は金髪の男と同じぐらいであろう。しかし、窶れている。
無精髭を生やしている。なんだか、疲れている男だった。
黒髪のその男は時たまやってきては、診療所へ向かっていく。
地元の住人たちは、他には診療所の来訪者を知らなかった。

だいぶ山道を入っていったところに、その診療所はある。
もっとも、数十年前に廃墟と化しており、ところどころ屋根がない建物とはいえないような建物であるが。
そこに、時たま訪ねる男―――つまり、僕は地元の人間からは幽霊扱いを受けている。
心霊スポットとなっていた診療所を棲家とする我が友人を訪ねる度に住人たちからは逃げられているが、それはもう慣れた光景だった。
何事にも慣れが必要だ。
山に入ってから数時間歩き続けると、白い建物が見えてくる。
それが、我が友人が棲む所―――『旧西之診療所』だった。
白く朽ちた木の玄関の扉を開ける。もとよりインターホンという時代の産物は無いので、そのまま入る。
ギシギシと軋む廊下を抜け、第参診察室へ向かう。確か、彼はここを寝床としているはずだ・・・。

「君は芥川を知っているか?」

扉の向こうから、語りかけてくる声が聞こえる。
その声は僕の中で木霊し、反芻され、脳でようやく理解されるために数秒かかった。
「もっとも、生前の彼を知っているか、という意味ではない」
次の言葉が聞こえる時には既に僕は診察室の中に這入っていた。
当たり前の事を言う彼―――ろくのへ六戸さつき皐月は僕に椅子を回転させて向き合う。
白い肌に白いワイシャツ、黒いジーンズというスタイルは大学時代から変らない。
二つあけた釦も・・・。

「知っているさ。『河童』の作者だろう」

場の空気に圧倒されず、僕は答えようとするが、どうしても語尾が震えてしまう。
「そのとおり」
そんな僕はお構い無しに、彼は余裕の表情でにやりと微笑んだ。
「『どうかKappaと発音して下さい』」僕が確かめるように言う。
「そのとおり」彼はまた、優しく微笑んだ。

 読者にはまず、なぜ無学な僕がこの男・六戸《ろくのへ》皐月《さつき》に出会い、友人となったのかを話さなければいけないと思う。
 あれは去年、いや十年前のことだっただろうか。
それほどにも彼との出会いは鮮烈であり、僕の記憶の中では今でも鮮明に残っている。
 大学を中退した僕が校舎をさまよ彷徨い歩いていたときだ。 上に図書室がある道を歩い
ていた僕の上からなにかが落ちてきた。
それはある人は人類の奇跡の集積と評し、またある人はただの紙の束と評したものだった。
黒い表紙に金色の文字で表題が書かれたその分厚い本は、僕の運動神経がなければよけられなかったであろう速度で、頭上から落ちてきたのだった。
手に取ってみる。
そこには英語の題名が書かれており、無知で無学な僕にはなんと書いてあるのかわからなかった。
上を見上げると、ああ、図書室の窓が開いている、と思った。
枠からはみ出たカーテンが風に揺れている。
そこからは古書が放つあの独特の香りが下にいる僕の鼻まで届いていた。
先程まで気にもしなかったその微量の香料は、眠っていた僕の中の『読書家』の壁をひっかく。
だがその壁は壊れることはなく、僕は歩き出す。
 図書室に行くのは、この本を返すため。
 そう思いながら。

 その当時六戸は助手をやっていたと思う。
今は山の中で世間から離れた生活を送っているが。
聡明な相貌とそれに合った頭脳の明晰さは大学でも評価が高く、教授たちも彼をかっていた。
そういった経歴の持ち主であるから、僕自身彼が山奥に住み類まれなる頭脳を使わずに毎日自給自足の生活を送っていると聞かされた時にはおせっかいと思いながらも、世話焼きと思いながらも心配したものだ。
 晴耕雨読。
 今の彼の生活を表すのにこれほどふさわしい言葉はないだろう。
 晴れた日には田畑を耕し、雨の日には読書に勤しむ。
 このご時勢、いい身分だろうと僕は思う。
 都会に身をおいている僕にとって、家賃を払わなくてもいい生活など想像できない。
毎日滞納日を考えながら生活を送っている身分にとって、矢張り六戸はいい身分に見えてくる。
別段、豪邸に住んでいるわけでもないのに、だ。
 その辺が偏狭な社会人としての視野の狭さが伺える。
 六戸はそれらをすべて超克した先に身を置いているので、こんなこと思ったこともないだろうが・・・。

 本が落ちてきたあの日、僕はその本を持って図書室へと向かった。
 大学の図書室であるから、それはもはや図書館と言っても遜色なかった。
 蔵書量は軽く四桁に及んでいたと思う。とにかく大きく、広く、蔵書が多かったという印象がある。
 東館と西館に別れたその“図書室”は、東がコリント式、そして西がゴシック式と建築様式が別れていた。
東のコリント式の図書室は天井まで届く(確か床から天井まで十数メートル)浅い溝が彫られた細身の六十八もの柱が並んでおり、
それらにアカンサスの葉が象られた装飾的な柱頭が印象的だった。
階数は二階だが、中央が吹き抜け構造となっており、そこから昼ならば溢れんばかりの陽光が、夜ならば神秘的な匂いのする月光が差し込む庭園だった。
漆喰で塗られたその柱は今もなお染み一つなく存在している。
一方、西のゴシック式の図書室は一階建てで、外側がゴシック式の建築というところまでしか一般の生徒は知らない。
なぜなら教授たちでしか入ることができない秘匿文書が眠る本棚が並んでいるらしいのだ。
謎めいた館は昼夜を問わず電子的に施錠されており、生徒が立ち入ることは出来ない。
 だからあの日、当然僕は東館へと這入っていった。
 その行為に間違いはなかったが、結果的には間違いだった。
 本を戻すのなら受付に渡すのが一番楽で親切な方法だろう、と僕は考え、
先ほどの黒い表紙の本を係りの人であろう中年太りのショートヘアに眼鏡という典型的に思える図書委員の女性に手渡した。
一旦笑顔で受け取った図書委員の女性はデータと照合するためであろう、
本の背表紙に印刷されているはずの登録番号を確認するために本を回転した。
するとどうだろう、傍から見ていた僕にも彼女の動揺が見えた。
なぜなら、本の背表紙には本来あるはずの登録番号が印刷された紙がどこにも見当たらなかったのである。
おかしいな、と僕も思った。
もっともこれまでに確認しなかった、というより気にしていなかった僕だったが唐突に本の題名が気になった。
 「失礼」
 そういって、本を手に取る。本に文字はなく、大聖堂らしき建物と天使が二人、金色で描かれている。やけに古そうだ。
 困惑した表情だった図書委員の女性だが、ふと思い当たる節があったのか、急に顔が明るくなった。
本を僕から取り上げるようにして奪いと、やっぱり違いない、と呟きながら、こう言った。
 「それ、恐らく東館の所有物ですよ」
 所有物?それはおかしな表現の仕方だな、と思ったが次の瞬間、黒い本はまた僕の手元に戻ってきた。
 「え?」
 とっさのことに反応できず、戸惑っていると、係りの人が優しく、
 「では、返しにいきましょう」
 と言った。
「は?」と言い返しそうになる口を押さえ(残念ながらチャックという便利な機能は僕の口唇にはなかったので「あ」という音が漏れでたが・・・)、
疑問の眼差しを送る。
 我妙案を得たり。
 そういう顔で、溌剌とした表情で手を取って案内された東館は噂通り陰湿な空気が生徒の侵入を拒む白い扉から滲み出ていた。
 それに勝とうとしているのか、係りの中年の女性は陽気なオーラを放出しながら馴れた手つきでインターフォンらしき装置に向けて声を出す。
 「西館担当の忍野です。どなたか、黒い本を落とされた方、いらっしゃいませんか?」
 聞いていて変なフレーズに思えた。さっきから感じていたが、この女性はどこか変だ。
 扉の向こうで反響しているであろう女性の声を想像しながら数分待つと、何故か学生らしき青年が扉の向こうから現れた。
 当時は珍しかった学生の金髪が先ず目に入り、聡明そうな双眸と、灰色の縁の眼鏡、整った顔つき。
 一目で、頭の良さそうだ、と思う顔は初めてだった。
 白いシャツの胸元の釦《ぼたん》を二つ開けて、右手を黒いジーンズに突っ込んだその青年は本を見るなり、僕から本を取り上げた。
「これが、貴重な本だって知っているかい?」
「・・・いや、知らない」
そんなことよりさぁ、と係の女性が言う。
「六戸クン、また、無断で入ったでしょ。神崎教授に叱ってもらわなきゃね」
係の女性―――忍野さんというらしい―――は六戸と呼ばれた男に怒ったように口を尖らせながら言う。
 すると、認証カードらしきものを六戸は翳す。
「これ、神崎教授のカードですよ」
 そういって、にやりと笑う。もう、と呆れた様に忍野さんは笑って何処かに行ってしまった。
 おいおい、いいのか?と僕が思っている間に彼女は西館へ這入って行った。
 残された僕と六戸はしばし気まずそうに立っていた。
「じゃあ、中、入るか?」彼が提案してくる。それはあまりにも予想外だった。
「立ち話もなんだろ?」そう続けた彼は相変わらずニヤニヤしていた。「あんた、大学辞めたんだろ?」
 それこそ、予想外の問いだった。なぜ。なぜ。なぜ彼は僕が―――。
「今、君が所属しているであろう建築学科は最重要科目の必修授業中だ。それをこんな所に呑気に歩いている馬鹿がいるか?」
彼が推理する。
「・・・・・・」僕は黙るしかなかった。
「・・・なんで、僕が建築学科だって分かったんだい?」そう聞く。
「君、あの西館がコリント式だって、気づいてるだろ?普通は知らないよ、あんなマイナーな建築式」
「・・・あ」だがそんなことは一言も漏らしていないはず・・・。
「君は・・・頭の中が読めるのか・・・?」そんなことはありえない・・・。そう思いながらの問いだった。
 そう僕が聞くと、彼は一瞬呆気に取られた後、寂しそうに微笑んだ。
「君の洞察眼は尊敬に値するよ・・・確かに僕には・・・」

「他人の思考が頭に流れてくるという特異体質をもっている」

・・・言葉は出なかった。
 それだけ彼は言った後、西館の扉の向こうに消えていった。
 僕も慌てて彼の後を追った。

「他人の思考が流れてくる、という表現はおかしい」老教授はきっぱりと言い放った。
 昼下がりの大学教授室は本棚に囲まれていた。地震がひとたびあれば全てが崩れ落ちてきてしまいそうな蔵書量だった。
 さすが、大学の教授といったところか。
「君の能力はせいぜい読心術の延長だよ。思い上がりも甚だしい」諌めるように教授は言う。
「すいません。ですが、説明する際はそちらのほうが分かりやすいかと思いまして・・・」六戸皐月が弁解するように言う。
「分かりやすい?そんなわけがないだろう」教授はきっぱりと言う。
「超常現象を常識の範囲で考えてしまう、つまり論理的に考えてしまうのは人間といけない所だ。だからといって、超常現象をそのまま伝えるのも語弊が生じるかもしれない。」 教授は言う。「なぜなら、常識で考えられないのだから。超常現象を理解するためには、同じ超常現象を体験するしかない。そうだね?」
「はい」六戸は言う。「ですが・・・!」
「思い上がるな、六戸君。君は超能力者ではない」
それは、六戸だけでなく、教授自身にも言い聞かせる口調だった。




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